萩焼の起源は、豊臣秀吉とともに朝鮮半島に渡った毛利輝元が、現地の陶工李勺光(りしゃっこう)、李敬(りけい)の兄弟を伴って帰国し、萩の松本に窯を築かせたことが起こりと言われています。 李勺光の死後は李敬が窯を継ぎ、藩主から「坂高麗左衛門」の名を受け、代々御抱窯(おかかえがま)として幕末まで続きます。また松本では、寛文年間(1661-72)に大和国の三輪休雪もこの地に来て窯を開き、以後御用窯として保護を受けてきました。 その後、天明六年(1786)には、坂倉万助が御蔵元支配人となり、深川(ふかわ)に蔵元支配の焼物師が集められます。坂倉本家・諸家をはじめ坂田・田原・新庄等の十二軒あったと伝わっています。 萩焼では、江戸時代を通じて藩主の保護のもと茶陶を中心に生産をしました。現在もその伝統の技が続いています。
萩焼の初期の作風は李朝白磁に近いものでしたが、その後、楽焼の作風などが加わり、「一楽、二萩、三唐津」と言われる、独自の個性をもった作品が焼かれるようになりました。 萩焼の大きな特徴は、大道土や金峯土(みたけつち)・見島土(みしまつち)を配合して得られる焼き締まりの少ない柔らかな土味と、高い吸水性にあります。吸水性が高いため、長年使っているうちに茶や酒が浸透し、茶碗の色彩が変化します。萩にはたくさんの窯元があり、薪材による登窯で焼成している処も多くあります。窯の中で炎に触れた部分は、釉調が白から赤紫色に変化します。この変化は「窯変」と呼ばれます。
萩を訪ねると、陶芸作家の工房が多く、茶陶の一品制作の作品ばかりが目立ちます。名もない民窯による、手作りの日常生活品といった性質のやきものが少ないようです。茶陶作家の作品はどうにも手が出せず、手頃な気の利いたやきもののお土産も見出せず、少し寂しい思いをしました。
萩陶芸家協会 萩焼協同組合
山口県立美術館
萩焼まつり 5月1日〜5日